✨🌈 CHINOちのたびTABI ✨🌈

発酵したパン生地のようにゆっくりふくらむ旅ブログ

『よくわからないなりに』 #2 徒競走とアハ体験

子どもの頃のおはなし。

「自分には全く理解できない何かが起きている。」

これは私の子ども時代を貫く感覚であり、未だ抱える恐怖の根源でもある。
実際、かなり理解力の乏しい子どもだった。
算数とか国語とかの知力を問われるもの以上に、もっと日常的で切実な「状況から判断する」という漠然としたもの、「暗黙の了解」的なものへの理解力が致命的に不足していた。今も得意な方ではないが、幼い頃は、とにかく毎日よくわからず生きており、それはわりかし怖い日常だった。

ただ、わからないことが多い日々というのは、時に面白いギフトをくれることもある。その代表として、アハ体験の頻度の高さ、そして、深さがあげられる。わからない時期が長ければ長いほど、理解できた瞬間は、とんでもない開放感を伴うものである。

例えば、徒競走。
以前も書いたが、私は徒競走がわからなかった。
いつスタートして、どこに向かって、いつ終わるんだか、
そういうことがわからないし、
そもそも、何のために走っているのかがわからなかった。
なので、運動会当日は、ヨーイドンの合図のあとは、
先に走り出した級友の後をひたすらに着けていった。
見失ったら最後、どこに行けばいいのかわからなくなる。
わからなくなれば、私はこの聴衆の面前で泣くに違いない。
それだけは避けたかった。

「あんた、足は速いのに、なんでかけっこはビリなんだろうね。」
元体育教師の母に何度も言われたが、私にはこの言葉の意味すらわからなかった。

この徒競走に大きな転機が訪れた。

小学4年生の時、体育測定で50m走の測定があった。
明確な白線2本の間を先生がいるところまで一人一人が走り抜けてるルールぐらいは
さすがに私にもわかったので、この時ばかりは安心して気持ちよく走った。
その結果、思わぬ良いタイムをだしてしまった私は、
あろうことか運動会のリレーの選手の補欠に選ばれてしまった。
補欠というところがいかにも中途半端だが、それでも私には事件だった。

リレーの選手というのは苦しそうに何周も何周もグラウンドを駆け巡る人たちではないか。しかも、なぜかカラフルな棒を握りしめているし、いつのまにかどこかで何人も走る人間が入れ替わるし、いつ走り終えるかも謎だ。

そして何より私にとってリレーが恐ろしかったのは、全員やけに顎を突き出して走っているところだった。1年、2年、3年とリレーを見てきたが、思い出すのは選手たちのやけに突き出された顎であり、競技観覧中、顎ばかり気にしていた私にとって、リレーとは、カラフルな棒を握りしめ、先生が白い紐を出してきて止めるまで、やけに顎を突き出して、ひたすら駆け巡らねばならないという、今思えば”狂気”を感じる競技だった。

その選手になぜ自分が・・・

徒競走のルールすらわかっていない自分にリレーのルールがわかる術はなく、リレーと聞いた私は自分の中でふくらんでいた得体のしれない競技への恐怖に心が撃沈した。しかもリレーの選手は運動会までの3週間、ほぼ毎日放課後に練習しなければならないという。初回の練習に、私は沈鬱な気持ちで参加した。

周りの級友は、リレーの選手に選ばれたことへの自信が笑顔に現れているし、毎年選ばれてベテランの貫禄に達している者も多い。確かに、ほとんどメンバーが入れ替わることのない小学校という枠の中で、突如足の速さが激変する者などいるはずはなく、リレーの選手に選ばれるメンツは毎年だいたい決まっていた。そして、小学校では足の速い人は大抵人気者であり、そのオーラを見事に纏う彼らの中で、私は確実に浮いていた。

その歪みをいち早く察知したのが、リレー選手の中でも、特にリーダー格を務める同じクラスの男子A氏であった。

「お前、初めてじゃね?」

リレーのエースからの直球の質問に私は慄きながら、ただコクンとうなずいた。

「ルールわかってんの?」

これまた直球の質問に、私は無言でかぶりをふった。

しかしこれはチャンス、リーダー格の彼から罵声を浴びて、さっさと補欠なんてクビになればよいのだ。そう思えば少し気が楽になり、彼からどんな扱いを受けようとも、覚悟はすわった。

が、意外なことに彼はものすごく丁寧だった。

まず、スタートラインを教えてくれた。そして、そこから例のカラフルな棒を持ってスタートすること。例のカラフルな棒はバトンと呼ばれていること。スタートしたら、トラックと呼ばれる湾曲したラインに沿って、一周を走ること。すると、次の選手が待っているので、バトンを渡せば出番は終了するとのこと。

以上、リレーとは、バトンを、数人の選手が受け継いで、いかに早くゴールまで運ぶかを競う種目だということを非常にわかりやすく教えてくれたのだ。

ここまで聞いて、私はしっかり理解ができた。
そして、理解できたリレーは、「掃除」のイメージに符号した。実はちょうどこの頃、私は「掃除」に関して画期的な発見をしており、心の片隅ではいつも「掃除」の事を想っていた。
私は小学校入学以来ずっと「何故雑巾で汚れを拭くと消えるのか」という疑問を抱いていた。が、ある日、教室の床のクレヨンらしき黄色い汚れを雑巾で拭き落としたところ、雑巾に黄色い汚れが移っているを発見した。

なんと!!汚れは消えたのではなく雑巾に移っていたのか!!

何を当たり前のことを、と大抵の方にとってはあまりに馬鹿馬鹿しい発見だろうが、私にはコペルニクス的転換級の気づきであり、深い感動にしばらく痺れてしまった。
ただし、この感動から雑巾を握りしめたまま呆然とする私の様子は、周りから見れば掃除をサボっている以外の何ものでもなく、罰として私はグループの8枚分の雑巾を洗ってくるよう命じられた。で、渋々一人でバケツを水道まで運んで雑巾を洗い始めたところ、例の黄色い汚れが、今度は水に溶けて流れていくのを目にし、私は再び高揚した。

掃除って、雑巾を使って、汚れを床から水に移して流す事だったのか!!!

いちいち大袈裟なやつと思われても仕方がない。
しかし、この時の発見は、今も身体に残るほどの心地よい衝撃で、
強く印象に残る壮大な出来事だった。

一つのものを、次から次に、人や物を介して移動させていく。

この点で、リレーと掃除が完璧に合致したことにより、
A氏の説明を聞き終えた私は、深いアハ体験を味わっていた。

なので、A氏が
「ルール、わかった?」
と確認してくれた時、
「うん、わかった!バトンはつまり汚れだね!」
と答えてしまった私をどうか赦して欲しい。

もちろんA氏は「はっ?」と思っただろう。
しかし聡明な彼は小4にして既に"流す"というテクを持っており、
次の発言は、「じゃ、一回走ってみる?」であった。

で、実際走ってみると、わりかし単純な競技だと感じた。
しかし同時に、全く興味が持てなかった。
バトンを運ぶことにも、運ぶ速さを競うことにも、
何一つ意義や魅力を感じられなかった。
これなら、雑巾を使っていかに早く汚れを水に流すかを競う方が楽しい気がした。
2、3回走ってからA氏は「あんまリレー向いてなさそうじゃん。やりたい?」
と聞いてきたので、私は至極正直に「全然やりたくない」と言った。

ここまでがリレーに関して私が明確に覚えている記憶だが、
この後は確かA氏が担任に掛け合い、
なんだかんだで私は無事補欠から外されたのである。

やがて、この補欠騒ぎは良き副作用を残してくれた。

A氏の指導により明確にリレーのルールを理解した私は、
その後自然に自発的に徒競走のルールを理解することができ、
なんと徒競走で一位を獲ったのである。

これは大変嬉しかった。

ただ、ここで大事なのは、一位が嬉しかったのではなく、
自分で理解したことを実行できたという点にあり、
この機微を自覚できたことも大切な学びとなった。

徒競走で一位の選手の体操服に貼られる金のシールが、
私には「よく理解できました」という証のように思え、
筆箱に貼り替えて、かなり長い間大切にした。

さて、こうして書きながら改めて振り返って驚くのは、
A氏の、教師としての素晴らしい素質である。
新参者へのアンテナやストレートな態度、
わかりやすい説明、
出したい結果へ対する明確な構え、
まずは試してみるという発想、
そして、本人の気持ちを問い、選択を尊重する気概 etcetc...

「あんまリレー向いてなさそうじゃん」という時の言い方も、
なんの咎めや見下もなく、ただ私をみて感じたままを述べていたので、
私も至極素直に受け取れたし、
足が速い=リレーの選手、という安直な判断を採用せずに適性を見極めた彼の慧眼は、
今持って尊敬に値する。
結果として私は一人では決して辞退を主張できなかったであろうリレーを、
彼とのやりとりによって選択することができ、
同時に、彼の指導から、徒競走とは何かを自分の頭で考えて理解する素地ができたわけで、これこそ学習の鑑ではないだろうか?

私にとって彼はおそらく初めて恩師と呼ぶにふさわしい人物だったのだろう。


✨🌈🙆‍♀️

 

 

 

 

この世で一番嫌いな質問。

人類が揃って訊いてくる質問というものがある。

例えばこれ、

「人生最後の食事は、何が食べたい?」

いきなり聞かれても困る。
食に関する限り、こちらの肉体的な状況が非常に重要なファクターであり、かつ年齢や季節、疾患の有無等、様々な要因が影響するにも関わらず、肝心の設定の定時が何もない、非常に不親切な質問といえる。

なので、私は考える。
そして、考えながら浮かんだ質問をする。

 Q. 今、天に召される設定か? 
今であれば、餃子だ。 

 Q. 今でないとするなら、季節はいつか?
夏ならばうどんを入れたガスパチョ、
秋なら栗か焼きなす、
冬ならシャブシャブも捨てがたい。

だがしかし、

どうせ人生を終える直前であれば
アレルギーが発覚して以来ずっと控えている、大好物の乳製品祭りでしめくく流という野望もある。
Q. 乳製品は一括りでオッケー?
この場合、だいぶ品数を盛り込めてお得な回答だ。

だがしかし、

考えてみれば、例えば餃子やとろけるチーズは熱々でなければ存在価値がなく、逆に、ガスパチョはキンキンに冷えていて欲しい。そうなると、温度を保つ設備やタイミングが必須条件となるため、入院している場合に叶えるのはかなり難しそうだ。過去の入院経験から察するに、場所を問わずにぬるくても美味しいもの、例えば柔らかい白パン、バターたっぷりのクロワッサンも考慮にいれるべきだろう。いや、疾患によって食欲がすぐれない場合には、「月夜野りんご」や「せとか」など、大好きな季節の果物が至高の逸品にも思える。
加えて私は歯が丈夫なほうではないから、もし高齢である場所には、噛みやすさを優先すべきかもしれない…

と、ここまで真剣に考慮し、相手に問いを繰り返しながらようやく答えが確定し始める頃、
残念ながら相手は既に私の回答に興味を失い、つまらない相手につまらない質問をしたことを悔いてさえいる。

だったら聞かないでくれ…

とも想うが、とはいえ、以前はもっとシンプルに「え?わからん」と答えていた。
元々は食に全く興味のなかった私が、ここまで真剣に考えてるようになったのは、食料事情が厳しいキューバ暮らしの影響である。

キューバ在住時、日本に一時帰国する予定が決まると、真っ先に考えるのは食事の回数だった。朝はほとんど食べないので、食事は昼と夜の2回が基本。滞在日数✖️2の数、例えば20日間帰国するのであれば、日本で食事をする機会は約40回となる。

40回。

初めての一時帰国の際、何気なく計算してみただけの、この具体的な数値はいささか衝撃だった。生命しかり、無限に続くような錯覚を起こしていた”食事”という営みが、自分の中で有限の存在となった。

一度だけ、帰国直後の実家にて、時差ボケでぼ〜っとしたまま、ふと目の前にある父の食べ残しのシャケと冷えたご飯を食べてしまった昼食の悔いたるや凄かった。

金輪際”40分の1”という貴重な食事の機会を無駄にはしまい
。
この時の決意がわたしの食への真剣スイッチとなった。

ただし、真剣さとはなにも、高級食材や手の込んだ料理、健康や美味の追求を指しているのではなく、例えば、サッポロ一番塩ラーメンに成田食品のベストモヤシを入れられる贅沢、近所のスーパーでポン酢を6種類から選べる幸せ、ラムネ菓子だけで2段も並んでいるお菓子棚の芳醇さなど、日本ならではの幸せを深々と噛みしめる感性を全開にして、食事への幸福度をガンガンに上げる努力、それがわたしにとっての真剣さである。

と、思わず熱くなってしまったが、
今日のテーマは食ではない。

さて、人類がこぞって質問することは他にもあり、

「生まれ変わったら何になりたい?」
「明日地球がなくなるとしたら、何する?」

この辺りも定番ではなかろうか。
これらの質問も、最後の晩餐質問しかり、あいまいでなんとも答えようのない設定である。

が、こうした漠然質問類の中でも、わたしにはとびっきり嫌いな、この世で一番嫌いな質問があった。それは、

「地球最後の日、誰と一緒にいたい?」

というものだ。
中学、高校辺りからやけによく聞かれるようになったことを記憶している。今振り返れば、質問の本意はおそらく、色恋に目覚めた思春期特有の、ムンムンきゃっきゃウフフ気分の、つまるところは「好きな人誰?」という問いの変化球であり、その相手と地球最後の日を迎えるという妄想を抱いて騒ぎたいという、どうでもいい質問だったのだろう。

しかし、わたしはこの質問にいちいち心を痛めていた。
おぼこくて恋する気持ちに酔うことを知らずにいたこともあるが、聞かれるたびに、先に自分が誰と過ごしたいかを考えるまでもなく、即座に「わたしを選ぶ人なんて男女問わず誰もいない」という絶望感に襲われてしまうからだった。

「わたしのことを選ぶ人はいない」

この確信は一体どこから来ているのか、当時はそんな自問することもなく、普段はただひたすら孤独感にキッチリとフタをしていた。しかし、この世界一嫌いな質問は、人がせっかく閉めているフタをいちいちガタガタ揺らして開けるのだ。開いた隙からは嗅ぎたくない孤独感が湧き立ち心をえぐる。だから、さらにキツくフタを閉めようとしては、また開けられるの繰り返しだった。

当時の生活圏には、父母、姉、友人、そして、時には恋人もいた。なのに、全身の毛が一瞬で泡立つほどの哀しい確信は、フタをキツく閉めれば閉めるほど、心の奥へ奥へと、柔らかく純粋な襞をドロリと溶かして、昏い底なしの穴を開けていた。

やがて20代になると、この質問をされる機会はなくなった。が、もはや何度も繰り返し開け閉めしたフタはとっくに壊れて、絶えず心の底からは孤独の不気味な気配が噴き上がり続けている。

それでもひたすら無視し続けていたら、今度は、パターン化された悪夢となって定期的にわたしを脅かすようになった。

夢の内容自体はたいしたものではない。

たいていは無人の教室か大きな部屋に一人で静かにしている。
するとクラスメイトや知人友人が大勢、どこかから帰ってくる。
わたしは一人だけ何かに参加していなかったことを知られたくなくて、
心臓をバクバク言わせながら逃げ隠れる。

これが基本のパターンである。
内容的に、例の嫌な質問と繋がりがあるのか不明に思われるかもしれないが、この時の夢の中で感じる心臓の痛みや悲しさ、苦しさがまさしく同じ振動だったのだ。

ちなみに、当時は他にも激烈な悪夢ばかり見ていた。
中でも、4大悪夢パターンというのがあり、この逃げ隠れる夢も、その一つなのだが、活字で描写してみると、他の、ここに書くのは躊躇されるような、エログロで、サイコパスな、非人道的パターン類に比べると、どうっていうことのない部類の夢に思える。

しかし、目覚めの感触は群を抜いて悪かった。大抵は重い金縛り状態になったり、号泣する自分の声で目が覚めたり、覚めた途端に吐いたり、とにかく身体の反応が激しくて、心臓は割れそうなほどに激しく拍動していた。

この悪夢期は5年ほど続いた。
途中、別件でカウンセリングを受けた時に相談したり、自分でアートセラピーの学校に通って心理学の勉強してみても、悪化こそすれ、改善される兆しは全く見えなかった。

が、30歳の時、ようやくこの悪夢に終止符が打たれた。

あの日、私はお盆休みで実家に帰り、そこに遊びに来ていた姉と、5歳になる甥っ子を真ん中に挟んで川の字で眠っていた。

すると、例の悪夢を見た。

今回のシチュエーションは横溝正史モノのヒロイン令嬢が住んでいそうな大きい洋館で、私はだだっ広いサロンか、居間のようなところで一人立っている。すると、玄関の方から、中学や高校、大学と、これまで知り合ったあらゆる女友達たちが大騒ぎして帰って来た。私は猛烈に慌てて、ソファーの後ろやキャビネットの影に必死に隠れて、皆に気づかれないように部屋から逃げ出し、暗い廊下や玄関を抜けて、道路に飛び出した。時は夕暮れ、私の向かいに日が沈み、背後に長い影を作っている。寂しさで潰れそうに痛む心を抱えながら、自分の影を追うように振り返り、どこかに帰ろうとしたその時、顔をあげると、道の先に甥っ子がいた。

うんち座りをして何かをじっと見つめているが、
わたしを見つけると満面の笑みで嬉しそうに走ってきた。

ゆうこちゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん

駆け寄る甥っ子を抱きしめた瞬間に目が覚めた。

すると、隣で寝ていた甥っ子は、すでに先に目を覚ましていて、起きた私に気づくと、夢と同じ満面の笑みで突進してきた。

ゆうこちゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん
おはよう!

こう叫びながら布団をゴロゴロと転がってきた甥っ子をギュゥゥゥっと抱きしめる、可愛い頭皮の汗ばむ匂いを嗅ぎながら。

その時に初めてわかった。
私はもうすでに、地球最後の日に一緒にいたい人を見つけていた。しかも、この子が誰を選ぼうとかまわないし、むしろ、この子がこれから誰か、最後の日を一緒に過ごしたいと願うほど愛する人を見つけて欲しいとすら願っていた。
そしてきっと、姉も姉の夫も、私の父も母も、きっと甥っ子を選ぶだろうから、そうしたら結局家族全員で一緒に過ごせるし、
そんな風に、人がそれぞれ、相思相愛だけではなく、色んな人を選んでいけば、どんどん連鎖して、たくさんの人と繋がって、みんなで最後の日を迎えることができるじゃないか、なんてことにも気づかされた。

以来、この悪夢は一度も見ていない。

心に穴が開いたのには、きっと理由があったのだろう。その理由は、人生でだんだんと、ふつふつと、発酵した気泡が一粒一粒浮き立つように、じっくり理解していくものなのだろう。
ありがたいことに、体の擦り傷や痣と同じように、心の傷でも、だんだんと、じわじわと、それこそ、傷ついた理由は理解できていなくても、少しづつちゃんと埋まり始める時がある。そして、埋まりながら、治りながら、時々そっと、穴が開いていた頃の記憶や、穴が開いた理由を語るような、静かな音が、ふつふつと、浮き立つように聞こえてくるのだろう。

スロベニアのなまはげに逢いたくて 👀『世界道バタ紀行』スロベニア・プトゥイ編

2019年2月 スロベニアにて。

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スロベニアのプトゥイ地方に伝わる伝統行事「クレントヴァニエ」の衣装

5年ほど前に読んで以来、ずっと心に残っていた記事がある。

karapaia.com

独特なコスチュームに身を包んだ人々が森の中を練り歩く不思議な写真とともに、
スロベニアの伝統行事「クレントヴァニエ」を紹介する記事だった。

「クレントヴァニエ」について簡単にまとめると以下引用の通り。

スロベニアのクレントヴァニエという伝統行事は、冬のシーズンの終わりを祝う年に一度の祭りだ。10万人以上の人がプトゥイの町を訪れ、祭りに参加する。さまざまな民族グループが参加し、古代スロベニア文化の伝統を受け継いでいる。冷たい冬の終わりが近づいてくると、スロベニアのさまざまな民族は、伝統的な仮面や衣装を身につけて町々を練り歩き、冬を追い払う儀式を行う。           
カラパイア2015年02月22日号より引用

『カラパイア』というサイトは、扱うテーマや書き手の温度が非常に好ましくて長年愛読しているが、中でもこの「クレントヴァニエ」の記事は滋味深く心に染み渡り、おそらく今後も行く機会はないであろうスロベニアに対して、それでも万が一訪れる機会があれば2月にしよう、なんていう思いをふんわりと残した。

なのでクロアチア転勤が決まって最初に思い浮かべたのは、
魔女の宅急便、紅の豚、そしてこの隣国のイベント、クレントヴァニエだった。

ザグレブに引っ越してからグーグルマップで調べてみると、開催場所のプトゥイはありがたいことにここから北に約100Km、車で1時間半という近さが判明。すぐに行ってみたくたくもなったが、引っ越し当時は6月でクレントヴァニエ開催の2月までは半年以上。慌てることはない、じっくり調べて行こう。

なんてしているうちに、わたしはすっかり油断した。
いや、油断というよりは、ちょっとめんどくさくなってしまったのだ。

まず、プトゥイに行く手段を調べてみると、ザグレブから近い街ではあるものの、直接繋ぐ公共交通機関がないため、プトゥイよりも遠いスロベニアの首都リュブリャナを経由してバスか電車を使って片道6時間かけて行くか、それが嫌なら自分の運転する車で行くしかない。車の場合、運転はいつも夫に頼むのだが、今回は有給をとって付き合ってもらうほどの意欲が湧かず、かといって、自分で運転してスピード制限130キロ超えの高速道路を飛ばす勇気も技術もない。
また、ザグレブの人に色々聞き込んだ手応えがあまり芳しくなく、ほとんどの人がクレントヴァニエを知らないか、稀に知っている人がいても、一緒に行きたい🎶とノッてくる人が皆無であった。
更には、プトゥイの街中を巡るパレードの情報は掴めるものの、カラパイア記事のように、荒野の中に佇む姿を見られそうな機会や方法については全く調べがつかず、「なんか思ってたんと違う…」という感がどんどん溢れてしまったのだ。

こうしてジワジワと興味が薄まり、徐々に忘れ始めたわたしは、クレントヴァニエまで一か月を切る頃になっても、もはや全く思い出すことはなかった。

 

ところがである。

一旦話は逸れるが、私はかれこれ25年以上日記をつけており、クロアチアでは三年連用日記を使っている。連用日記とは数年間分の同じ日付の日記欄が1ページに印刷されているもので、今のは2019〜21年分の3年間分を縦に連ねて記せるようになっている。
↓以下写真参照(三年分の11月1日のページ)

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さて、2019年分を無事書き終えて、ザグレブで初めての新年を迎えた私は、元旦から2段目の2020年を書き始めた。そして1月も早々と末日を終え、さて明日から2月だわい、とページをめくってみたところ、不意にこんな付箋を発見した。

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はっ 、プトゥイ・・・
久しぶりに思い出す街の名前は確かにわたしの字で書かれていた。
しかも、一番大事なことを知らせる時に使う黄色付箋+赤ペンのコンビネーション。
クロアチアに渡航する直前のわたしが未来のわたしに宛てたメッセージには、
きっとめんどくさくなって、なんの準備もせずに忘れているであろう自分のために「(用意)」とまで記されている。よくわかってらっしゃる、そして、悲しいほど予想通りである。過去の自分の先見、そして細かい配慮に心打たれた。

そうだ、クレントヴァニエ行こう。

やっとその気になり「こうなりゃ街のパレードでもなんでもいいから一度行けばいいじゃないか」と気持ちが吹っ切れて調べ始めたら、クレントヴァニエの公式サイトを発見した。ただし、一週間以上続くカーニバルの期間は、伝統的パデントから国際色豊かな仮装パレードまで、ありとあらゆるイベントがごっちゃ混ぜに開催される様子で、私が求める”あの”クレントヴァニエがいつどこで登場するのかはサイトをいくら読みこんでも全くわからなかった。

またしても面倒臭い臭が…

いやしかし、黄色い付箋が萎える気持ちを奮い立たせる。
いくら読んでもよくわからないスケジュールにはお手上なので、「最終日なら全部出るだろう」と勝手に予測して2月22日に当たりをつけた。
しかも、その日のイベント開始時間は午後1時とあるから、朝ゆっくり出発できるし、ゾロ目もなんだか良い。よし、この日にしよう。

決めれば行動は早い。結局は夫に有給を取るよう頼み、ついでにレンタカーの手配も頼み、高速道路や国境越えについても調べるよう頼み、諸々準備完了。

迎えた2月22日は清々しい心が空に映えたかのような快晴。
夫が朝に一仕事あったので出発は11時と遅めだったが、余裕で間に合う出発だった。

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しかし…

幾度も確認したはずのスケジュールを車内で読み直していると、
なんと開始時間が11時となっている。
いや、前見たときは絶対13時だった!とよく読み直して目に入った13の数字には、
終了時間と書かれていた。

ガビーーーン…

なんでこう、事が始まってから気づくんだろう…
昨日も確かめて、意外と心配性で、何度も読んだのに、
なんでこう、肝心なところがドカンと抜けて、
動き始めてからしか気づけないんだよ…
本当なんなん…
永遠に続く自問自答地獄に突入しながら、とりあえず時間確認の失態を夫に伝えた。

が、元々クレントヴァニエ自体にさほど興味のない彼は全く意に介さず、「まぁ行ってみようよ、綺麗な街みたいだし。だいたい、カーニバルの最終日なんて、なんだかんだ一日中盛り上がっているんじゃないの。」と呑気に返してきた。そう言われれば確かに、年に一度の大きな行事の最終日が、たった2時間のイベントだけで終わるはずないねぇ、と単純に気楽になった。

13:20プトゥイ着。

街の入り口付近は、ゴーズトタウンかのように人がいなかった。
本当に全く人がいなかった。駐車場も空いていた。

いや、でも、ここはまだ街の端だし、きっとみんなメイン会場に行ってしまってるんだね、そうに決まっているよね、と、自分を励ましながら街の中心部へ歩いて向かうこと5分、かろうじて人影のある道に出た。

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人、少な…

消え入りそうな希望を胸に、更に中心の方へ向かうと、

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もっと少な…あまりの活気なさに心が怯む。

 

が、まさにこの時、わたしの耳が遠くでかすかに響くカウベルの音を拾った。

 

👈💨「あっちだ!!!」

音を頼りに猛烈にダッシュしていくと…

これまでにない人混みに遭遇!

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うむ、手応えあり… (琵琶丸)

よりはっきりと聞こえ始めたカウベルの音目がけて、
細い坂道を人並みかき分けて加速ダッシュ👈💨

すると…

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いたぁ!
動いてる!歩いてる!
本物のクレントヴァニエ!

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まさに”あの”クレントバニエが今目の前を歩いている!大興奮で近づきながらほぅ〜っと見惚れた。

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が、

見つめることわずか5秒、
彼らは突然わたし以上の猛ダッシュをかけて遠くへ行ってしまった。


え?


あっというまに遠ざかる毛皮の背中を呆然と見送る。
ふと横にカーニバルのスタッフらしき人がいたので、
「今日は他にどこでクレントヴァニエが観られますか?」と声をかけた。

すると彼女は、優しさと悲しさを讃えた深い眼差しでわたしを見つめ、
キッパリと教えてくれた。

「今日あなたにはもう彼らを見るチャンスはありません」
あまりの潔さに、英文が今も耳に残っている。


You don't have any chance to see them today.


あぁ、なんとシンプルで清く潔い英文だ。まるで教科書に出てきそうだ。
ここまではっきり断言されると、普段はすぐに引き下がる気の弱いわたしだが、
今回はなんとなく諦めきれず、
「せっかくこのために日本(から移住したザグレブ)から来たのに!」
「(数年後には)日本に帰らねばならぬので今日は貴重なチャンスなのに!」
「ホームページには(終了時間だけど)13時って書いてあった、まだ13時半じゃん!」等々、
もちろん()内のことは隠したまま、
彼女の清い潔さとはあまりに対象的な往生際の悪さで粘った。
が、所詮いちスタッフらしき彼女にできることはなく、
見れないものは見れないとの返事。
それはそうだし、正直わたしの方でも、言いたいことは言ったし、
一瞬でも観れてよかったじゃん、と、すでに納得しつつもあった。

ただ、やっぱりどこか寂しい気持ちはいなめない。
仕方がないから街の見物でもして帰ろう、とトボトボ歩き始めると、
ふと右手の奥にギュッと心惹かれる小径があった。

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素敵な気配に惹かれてフラッと小径に入るわたしの背後から、突然夫が呟いた。

 

「あれ、やれば?」

え?あれって…
あぁ、あれ!?

それは、遡ること3ヶ月。私はチェコ共和国のとある街で、寂しい心を持て余したら突然道にバタリと倒れこむ「道バタ」という治癒行為を発見していた。

自分ではすっかり忘れていた「道バタ」を、まさか夫が覚えているとは意外だったが、さすが撮影した当人だけのことはある。


そうだ、わたしには「道バタ」があったじゃないか!


瞬時に前後左右人がいないことを確認して、わたしは迷わずバタった。

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あぁ、吸い込まれていく、
わたくしの中の、
寂しさという湿り気が…
スロベニアの石畳の優しいこと…
無骨ながら頼もしいこと…

と、安心しきって己の存在全てを道に委ね、
鎮まる心の静けさに浸っていたその時突然、

「Wa hahahahahahahahahahahah ha〜」

道いっぱいに盛大な笑い声が響き渡り、
わたしの静寂を打ち破ってしまった。

軽やかなソプラノで心底愉快そうに笑う声は、
まるで天から降ってくるようだった。

天使?天使なの?

そう幻聴しながら声の方を見上げてみると…

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はっ!あんなところに人が!
前後の無人は確認したのに、まさか上があったとは…

恥ずかしさから慌てて立ち上がり、内心はドキドキしながら、平静を装って照れ隠しに周りを何枚も撮影したり、手元の地図を開いて覗き込んだりした。
で、ちょっと落ち着いてもう一度見上げてみると、思ったより遠いし、自分が笑われたと思うのは自意識過剰だったかもしれない。
地図によると笑い声の主がいたのはプトゥイ城の城壁で、今いる小径はそこまで繋がっている様子。とりあえず行ってみようと話がまとまり、小径が曲がる方へ道なりに進み、だんだん急な傾斜となる細い坂を登ること5分。

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プトゥイ城に到着。

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小さくも美しい街並みが眼下に広がる。

で、さっき笑い声の主がいた場所から下を覗くと、

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うん、バッチリ見えるね。
矢印が私のいた場所。
うん、あそこに人が寝てたらおかしいね。
わたしを笑っていたね。
教訓:今度から道バタするときは前後左右に加えて上下も確認すること。

さて、気を取り直してお城を見渡す。

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お城というよりは住居に近い雰囲気の素朴な造り。壁には日時計。

正門横に博物館があったので入ってみたところ、嬉しいことにクレントヴァニエの衣装や道具が山ほど展示されていて触り放題だった。

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かっこいい。

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ズラっと並ぶコスチューム。一つ一つに名前があって、雰囲気も素材も全く違う。

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じっくり見入りすぎて写真がほとんどないのが残念なものの、キャプションのおかげで、クレントヴァニエという名前は1960年代以降という案外最近使われるようになった名称であること、街でもみかけた羊皮のコスチュームはコレントやクレントと呼ばれていること、この地方に伝わる伝統的なフィギュアはとてもバリエーション豊かで何十種類も型があるということ、今はローマ系の文化を色濃く継承しているプトゥイだが一番最初に定住したのはケルト系民族であったこと、などなど色々と知ることができた。

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別室では地方独特のナイーブアート作業模型も堪能。

お城から街中へ戻る道すがらの遠景は、ブリューゲルの「雪の狩人」を彷彿とさせる静けさに満たされていた。

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そして中心部へ戻ると、
クレンドヴァニエを無事終えた人たちが、
子どもと戯れたり、

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バーで乾杯していたり、

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それはそれで、さりげなくもかけがえのない瞬間を見せてくれて、ありがたさに胸がいっぱいになった。

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静かな美しい街プトゥイPutujは今日もきっとひっそりと旅人を待っているだろうな。

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なお、わたしはここで、自分がクレンドヴァニエとの出会い以上に、再開した道バタへ対して非常に深い充足感と、異常に高い快感を抱いていると気づいてしまった。
以降、本格的にわたしの道バタ紀行は始まったのであります✨🌈

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界初の"道バタ"誕生✨ これが最初の『世界"道バタ"紀行』チェコ共和国編

2019年12月 チェコ共和国第二の都市ブルノ

去年のクリスマス・イブ🎄🎅
チェコ共和国南部にあるブルノという小さな町を訪れた。
小さいながらも古き良きクリスマスマーケットが素敵だという評判を聞いて
かなり楽しみにしていたが、着いた町はマーケットどころか商店も軒並み閉店。
通りは木枯らしばかりが吹き荒び、人の姿もまばらだった。

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そう、カトリック圏のクリスマス・イブや当日は、
昭和初期の日本のお正月状態になる。
このことは中南米のカトリック圏諸国で散々学んだのに、
ペルーでも、メキシコでも、全て閉店という辛苦をなめたのに、
にもかかわらず、ヨーロッパでも同じ愚行を重ねてしまった。

とはいえ、普段ならこれぐらいの失敗は全然平気なはずなのに、
この日はやけにこたえてしまった。
氷点下という慣れない気温も影響したのかもしれない。
ヨーロッパの田舎のクリスマスというキラキラにすごく憧れていたのかもしれない。

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行けども行けども、通りは、撤収直後の”後の祭り”感に満ちており、
歩きながら「なんか私っていっつもこうなんだよな…」なんて、
過去をほじくりかえして、心がシュンシュンと堕ちてゆく。
些細なことほど、突然ネガティブスポットへの真っ暗な口を開く。
こうなると、もう止めようがない。
頭の中でどうにか心を落ち着かせようとしても、
胸は寂しさで張ちきれんばかりで、
もはや涙がこぼれおちる、とぐずったその瞬間、
ふと、
「この心を大地に吸い取ってもらおう」
という想いが湧き上がり、
誰もいない道にバタッと行き倒れたところ…

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まさかの効き目だった。
ほんの30秒程度横になっただけで、
全身からいらないものが全て地面に吸い込まれいくような感触を味わい、
すっと立ち上がると、心身共にツヤツヤとしたスッキリ感に満たされていた。

なお、なぜこの写真があるかというと、
寂しさに心がいじけた時、
このままだと連れに八つ当たりをしそうだったから、
気持ちを落ち着けるまで別行動してもらっていたのだが、
彼が少し遠目から倒れゆく私を発見して、隠し撮りしていたのだ。

で、"道バタ"をしてスッキリしたところに、この一枚を見せられて大爆笑。
私は完全に回復した。

ここから気を取り直して街を歩いていると、
2時間だけ開店していた本屋で絵本を買えたり、
小さいながらも開いてるクリスマスマーケットを見つけたり、
突然轟音とともに現れたバイク集団に遭遇したり、
(ブルノはバイクサーキットやバイク用品蚤の市で有名だからかな?)

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謎のサムライを見つけたり、

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地元の教会で灯火を持ち帰る人々に出会ったり、

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ささやかな喜びを感じる心が蘇っていることを実感。

道に倒れたのが効いたのか、
あの道がパワースポットだったのか、
あまりに馬鹿馬鹿しいことをしたのが効いたのか、
"道バタ"は絶大な効果があった。

こうして"道バタ"にハマった私は、
やがて旅先でバタバタと道に倒れるようになった。
これが、世界”道バタ”紀行の始まりである。

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Colorín colorado✨🌈

【チェコ共和国:ブルノ】
チェコ第二の都市で、モラヴィア地方の中心。
最近絶景で注目を浴びる”モラヴィア大平原”を旅する拠点にもなる。

 

 

『世界地図うろ覚え選手権』ヨーロッパ編🌍✨



全世界の国名や街の様子が
これほど同時多発的に報道されることは、
未だかつてなかったのではなかしら?
国際的なニュースといえば、
例えば戦争やテロ、自然災害、スポーツ、観光etc...
様々な国が一時的に注目を浴びて報道されることはあっても、
よほど縁のある国でもない限り、
それはどこか遠い国のお話で、
知らなくても困らなくて、
す〜っと耳を流してしまう、
そんな時がたくさんあった。
でも今は違う。
世界中で同じ問題を抱え、
高い関心を持って様々な国の名前を耳にするからこそ、
世界地図の正確な位置関係を、
まっさらな気持ちでつかみ直すことは、
地球を肌感覚で受け止める真摯な機会だと日々実感。

私はもともと世界地図をみるのが好きですが、
眺めているだけでは、
フワッとしたイメージを掴むばかりでした。

が、去年クロアチアに移住した際、
ここらでしっかりヨーロッパの地図をおさらいしておこうと思い、
ちょっと工夫して、
1人で”世界地図うろ覚え選手権”を始めました。
これが存外、身体感覚で地図を感じて楽しかったので、
一緒にワイワイ遊んでくれる方が増えたら嬉しいなと、
ここで紹介させていただきます。

地図が好きな人には多分楽しい発見があると思います✨

『世界地図うろ覚え選手権』ヨーロッパ編

まず、
持てる限りのヨーロッパ地図の知識を書き出し、
自前のうろ覚え地図を作成します。

私は以下のようになりました。

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正直、ヨーロッパの地図は若干自信がありました。
国名も書いてくほどに思い出してくるし、
形も結構いい線いってると。 

で、
十分書けたら、答え合わせをします。
グーグルマップやネット上での白地図が便利です。
私は以下のサイトの白地図を使いました。

power-point-design.com

ヨーロッパの白地図はこちら。

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さて、私のうろ覚え地図と合わせた結果はどうでしょう・・・

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全然違う(爆)
最初のうろ覚え地図からの修正なので、
正しく写しきれてないですが、
それでも、
頭でイメージしてた地理と現実のとの違いが一目瞭然!
めっちゃ快感です。

特に驚いた点、自覚して大事だと感じた点を書いていくと、

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アイスランド、意外と英国に近い!
グレートブリテン島(英国)大きい!
アイルランド、南じゃなくて西側だった!
北欧と英国、けっこう近い!

こうした驚きが、ガンガン身体に地図を染み込ませてゆきます。

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ヨーロッパ全体に対して・・・
北欧、大きい!
バルト三国も思ってたよりずっと大きい!
ポーランド、大きい!
てか、ロシアの大きさ、どんだけぇ!

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ヨーロッパ全体に対して、
フランス、大きい!
スペイン、大きい!
イタリアも意外と大きい!
オランダやベルギー、スイスは、
思ってたより小さい!

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この辺りはもはや国が入り組みすぎて修正不可能、
バルカン半島、大きい!
黒海も大きい!
ブルガリア、ルーマニアはギリシアより大きい!

今回描いて、見て、何より驚いたのが、
トルコが、意外と近い!
地中海が思ってたより、小さい!
アフリカも、意外とかなり近い!
つまり、
ヨーロッパは想像していたよりずっと
アジアやアフリカと近い!
という地理的事実でした。

例えば、シチリア島とチュニスの近いこと!
(正確には白地図をご覧ください)

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アフリカからイタリアへの難民問題のニュースを見て、
なぜ、わざわざヨーロッパの真ん中の方のイタリアに来るんだろう?
と、疑問に思っていましたが、納得の近さです。

グーグルマップでヨーロッパを見ていても、
ほんの少し尺度を引けば、
シリアやレバノン、イスラエル、エジプトがすぐ間近に入ってきます。

さて、
一通り自作の地図での驚きに浸った後は、
さらヨーロッパの地図に、日本地図を合わせてみると、
更に距離感を肌感覚で掴む驚きが得られます。

実際に動かして国の大きさを比較出来る世界地図「The True Size Of …」
最近はまっているのですが、

thetruesize.com

ヨーロッパと日本を比較してみると、

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日本、デカい!
私は大学生の時に日本の大きさに気づくまで、
日本は世界の中でも極小の小さくて狭い島国と思っていましたが、
改めて重ねてみると、意外な大きさに気づき、
ヨーロッパ大陸ではいかに多くの国が
近い距離で国境を接しているかを実感できます。

私が暮らしているクロアチア共和国は、
への字型のブーメランみたいな形をしていますが、
国土は九州と四国を足したより少し大きいぐらい。
2月上旬、イタリア北部の感染拡大を受けて、
一気にクロアチア国内の緊張感も高まりましたが、
それもそのはず。
国境的にはスロベニアを挟んでいるイタリアは
クロアチアの隣国ではないものの、
例えば感染拡大地区ロンバルディア州と、
クロアチア西部都市リエカの距離は東京⇄京都くらい、
イタリアから比較的遠い首都ザグレブでも、
その距離は東京⇄姫路くらい、
この距離感を肌で掴んでいるといないとでは、
危機感が全く違いました。
これは距離を示す数字からだけでは得られない感覚です。


私は数字から具体的なイメージを掴むのが苦手です。
面積だ、距離だ、時速だ、人口だ、体積だ、値段だ、
数字だけ言われてもポカーンとしてしまいます。

かつて、キューバの人口を聞かれて、
「100万だか1000万だか、ぐらいです。」
と言ってしまうくらい、
数字の違いには無頓着の超どんぶり勘定野郎です。

だから、
実際地図を描いて数字感覚も掴めるこの方法は、
目から鱗でとても楽しいです。

次回は得意分野の中南米編🌎
知ってるつもりつもって、色々発見がありそう✨

Colorín colorado✨🌈

 

 

読むたびにいつも自分の大切な心に還るありがたい"お経"🙏🏻スペイン語訳付き✨

『こぞうさんのおきょう』
 新美南吉

やまでらの おしょうさんが びょうきに なりましたので、

かわりに こぞうさんが だんかへ おきょうを よみに いきました。

おきょうを わすれないように、

こぞうさんは みちみち よんで いきました。

キミョ
ムリョ
ジュノ
ライ

すると なたねばたけの なかに うさぎが いて、

「こぼうず あおぼうず。」

と よびました。

「なんだい。」

「あそんで おいきよ。」

そこで、こぞうさんは うさぎと あそびました。

しばらく すると、

「やっ しまった。おきょうを わすれちゃった。」

と こぞうさんが さけびました。

すると うさぎは、

「そんなら おきょうの かわりに、

 むこうの ほそみち
 ぼたんが さいた

と おうたいよ。」

と おしえました。

こぞうさんは だんかへ いきました。

そして、うさぎの おしえて くれたように、

ほとけさまの まえで、

むこうの ほそみち
ぼたんが さいた
さいた さいた
ぼたんが さいた

と かわいい こえで うたいました。

きいていた ひとびとは びっくり して 目を ぱちくり させました。

それから くすくす わらいだしました。

こんな かわいい おきょうは きいた ことが ありません。

そこで、ごほうじが すむと、

だんかの ごしゅじんは すました かおで、

「はい、ごくろうさま。」

と、おまんじゅうを こぞうさんに あげました。

「ごちそうさま。」

と こぞうさんは おまんじゅうを いただいて たもとに いれました。

こぞうさんは、かえりに その おまんじゅうを、

さっきの うさぎに わけて やる ことを わすれませんでした。

ー了ー



青空文庫サイトに原作が公開されています。
新美南吉童話集はたくさんありますが、
ハルキ文庫版は幼年童話がたくさん載っています。

新美南吉 こぞうさんの おきょう

 

www.amazon.co.jp

 

ご縁があって、スペイン語訳も作成しました😊
スペイン語にご興味のある方は是非お楽しみくださいませ✨

Sutra de Kozo NOTE.pdf 25.7 KB ファイルダウンロードについて ダウンロード

 

お餅の話

小学校の頃のおはなし。



お餅が好きだ。
小さい頃からずっと好きだ。

我が家はみんなお餅が好きで、一年中通して、週に3〜4回は食べていた。
なので、18歳で一人暮らしをし始めた時も、お餅のストックは絶対に欠かさず、
主食のように食べていた。
が、それをみた友人たちは、お餅なんて正月くらいしか食べないという。
初めはそっちの方が少数派かと思っていたが、我が部屋に遊びにくる人たちは、
お餅を見つけては同じことを言い、
だんだんと”正月のみ派”の割合が増えてゆくにつれ、
他の子、というか家では、さほどお餅は食べないらしいと認めざるを得なくなった。
しかし、今暮らしているのは関西、大阪だったことから、
「そうか、私の生まれ育った横浜が、お餅をよく食べる地域なんだな。」
そんな風に勝手に納得した。

で、夏休みに帰省した際、いつも通りお餅を食べながら、
「関西ではあまり餅を食べないらしい」と母親に話したところ、
「いや、こっちでも、こんなにお餅食べるの、たぶんうちぐらいだよ」
と、あっさり返された。

なに?
それは素直に納得できない。
なぜなら、今回の思い込みには珍しく根拠があるのだ。
小学生の頃、私は、よく遊びに行く友達の家々でも、しょっちゅうお餅を食べていた。はっきりと記憶がある。
だからこそ、我がふるさと横浜ではお餅をよく食べるのだと思ったのだ。
以上を反論すると、母は大変満足そうに、
それでいていつもどおりクールに笑いながら、

「それ、ママが配ったんだよ。」

と、意外な真相を明らかにした。

当時の私は極度の偏食で、
友人宅で出される食事はほとんど食べることができなかった。
しかし、加えて極度の人見知りで気が弱かった私は、
友達のお母さんに向かって、
これ食べられない、とか
これ苦手、とか
他のものがいい、とか
そういうことがどうしても言えず、
ただ「お腹すいてない」とだけモジモジと繰り返していた。

ある日、そんな私を心配した友人の母親が、
「ゆうこちゃん、一日遊んでてて何にも食べないんだけど大丈夫かしら?」
と母に相談してきた。
私の好き嫌いの激しさと気の弱さにピンと来た母は、
私がよく遊びにいく友人宅を巡り、
「あの子がお腹いっぱいっていう時は、
たいてい好き嫌いで食べられないんで、
焼いて出してやってください。」
そう伝えながら、餅を配ったそうだ。

聞いていて、耳鳴りがしてくるほどに嬉しかった。

母はかなりドライな性格で、
なんでもサッサとテキパキこなす元体育教師。
私とは正反対と言える人間で、
私のことを理解しようとするのは、早々にあきらめたと昔から言っている。
実際、私と母は水と油で、
私が何か少し話をしただけで、聞いてもいないアドバイスを勝手にしてくるとこも、
マイペースに楽しむ私を愚図と言い放つとこも、
不器用ながら一生懸命やっているものを取り上げて、
自分でササっと仕上げて得意げに返してくるとこも、
本当に苦手だった。
愛情表現はいたってドライながら、
当時は家庭の問題が重なってヒステリーも出るという、
感情の振れ幅が激しい母を、
子どもの私は持て余し、
正直、かなり怖く、少し冷たい人だと思っていた。

でも、
こうして私の気づかぬところで、
どれだけ生きやすくなるよう助けてくれていたんだろう。
どれだけドライにさりげなく助けられていたんだろう。

話を聞いた当時は心がまだ青くて、
そんなことしてたの!?という恥ずかしさが思春期らしく優っていたが、
最近ようやく、ごく素直に、
このお餅の中に溢れる”温かみ”をしみじみ味わえるようになった。

そういえば、心が一番苦しく真っ暗になってしまった時期、
3年ほど和菓子作家のお師匠の下で修行をし、
和菓子の力を借りて自分を立て直した。
来る日も来る日も、鎌倉の山奥で和菓子に集中する時間は、最高のリハビリだった。
中でも、求肥が愛おしかった。
毎日作りたての求肥が生まれるたびに、
ほっと息をついて、ひと撫でして、ぷわぷわとした求肥を指でさすりながら、
赤ん坊のお尻のようだと慈しみ、
その度に、心がほっくりと癒されていた。
もしかしたら、できたての温い求肥の中に私は、
母に繋がるお餅の温もりを見つけていたのかもしれない。

こんなことを想う日がくるとは、人生捨てたもんじゃない。
これからもさらに、過去を掬い直して、救い治せるならば、
年を重ねるというのはなんとありがたいことだろう。

クロアチアでも、相変わらずお餅をたくさん食べている。
お餅、うめぇ〜〜〜。


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